「お呼びがかからないようで・・・」、当然だよ!

【 ☸ 今日の記事 ☸ 】

 

 誠に情けない「首相」又は「総裁」です。

 

 「都議会議員選挙」が始まって、さぞかし、大忙しだと思いきや・・・。

 「朝日新聞」の6/24朝刊「6/23の首相動静」。

 【午前】7時37分、羽田空港。8時6分、全日空463便で同空港発。10時25分、那覇空港。11時9分、沖縄県糸満市平和祈念公園国立沖縄戦没者墓苑で献花。翁長雄志沖縄県知事同行。15分、同公園内の沖縄平和祈念堂。46分、同公園内の沖縄全戦没者追悼式会場。追悼式に出席し、献花。あいさつ。

 【午後】0時58分、同公園内の島守の塔。献花。1時1分、報道各社のインタビュー。30分、那覇空港。空港内の貴賓室。40分、翁長沖縄県知事、鶴保庸介沖縄北方担当相、塩崎恭久厚生労働相。41分、翁長沖縄県知事出る。2時19分、全員出る。3時6分、全日空766便で同空港発。翁長沖縄県知事見送り。4時40分、伊丹空港。5時23分、神戸市灘区の神戸製鋼所の神戸製鉄所・石炭火力発電所。視察。川崎博也神戸製鋼所会長兼社長、西村康稔自民党総裁特別補佐同行。7時5分、同区のKOBELCO摩耶ゲストハウス。川崎神戸製鋼所会長兼社長、西村同党総裁特別補佐らと食事。9時35分、神戸市中央区神戸ポートピアホテル

 

 「朝日新聞」の6/24夕刊 「素粒子

 

 沖縄の追悼式で知事と目を合わせぬ安倍首相。首都決戦に応援の声かからず。居心地悪いか昨夜は帰京せず。

 

 立候補された方も、こんな時に「応援演説」に呼んで、「印象操作されて・・・」などと演説されては、人気ガタ落ちになるでしょうから・・・。情けないですね。親分を呼べないなんて・・・。

 

 

 
  • 「とても気になる、どう考えますか?」

 

 「都議選」応援演説のお呼びもかからず、こんな所で「怪気炎」を上げていたようです。

www.msn.com

 上の記事は「産経新聞」ですが、「これに対するコメント」を一つ。

『全国展開ですか?・・全く理解に苦しみますね。今時、一点集中的な国策を必要とする業種があるのだろうか?アメリカとの牛肉の貿易について、今後、どのような展開になるか?も予測するには難しい問題です、極めて根拠の無さを感じます。
果たして、そんなに獣医師は必要とされているのだろうか?・・・
「岩盤規制を打破する」との言葉に酔い痴れている場合ではありませんよ。
公務員の天下りを退職後5年間完全禁止にする・・・とか。国のやることは沢山あるでしょう。やるべき対象がズレてるな~と感じます。
思い込みを無理矢理実現しようとする、その姿勢が既に多くの国民からはまた、裏でコソコソ、表では見るに耐えないパフォーマンスと見透かされている事に気付くべきですね。妻の証人喚問を受けた方がいいと思います。身に覚えが無いなら何も心配する必要などありません。逃げ回る姿は悲惨ですよ。』

 加えて、「私のコメント」は、『国会で演説してごらんなさい!かなり反響あると思うよ』

 近日中に「精神科」を受診されることを要望します。「責任転嫁」症状が随所に見られます。発言内容に「一貫性」が欠如しています。「今治」(加計)に絞れるように文面を変更したのは何だったのでしょう。全国展開と言うなら、そんな加筆は(例の文面に)必要なかったことになり、京都産業大学獣医学部開設が可能となったはずです。

 

 

 国営放送も、取材したまでは良かったが、「怖くなりましたので、放送止めました」。「政権忖度放送」ですので・・・。会長代わって少しは「皆様のNHK」に戻ると思いましたが、まだ、「安倍様のNHK」のようです。

 それとも、忖度だけではなくて、取材した内容を「政権」に漏らしたか?

www.msn.com

 どうしたNHK

 

 

  • 「言いたいこと(1.と関連あり)」

 

 この書籍からの引用も最終章です。

安倍晋三が〈日本〉を壊す──この国のかたちとは:山口二郎対談集

安倍晋三が〈日本〉を壊す──この国のかたちとは:山口二郎対談集

 

  P.309~ (下線は筆者が付加しました。誤字脱字はご容赦ください。)

 

 終章 民主政治の危機と好機

                                  山口二郎

 

 本書は、安倍晋三政権が進める日本の民主政治と市民社会の破壊に対して、抵抗と対抗提案を打ち出す人々と私の討論を収めた。このまま安倍政権の好き放題を許していては、戦後の民主政治と人々の生活が取り返しのつかないまでに破壊されるのではないか、2016年の参議院選挙でこれを止めることができなければ、この年は日本の民主政治にとってのポイントオブノーリターンになるのではないかという危機感が、すべての論者に共通している。各論をふまえ、日本政治の今をやや広い/長い、空間/時間軸に位置付けて説明し、これからをなるべく希望的に展望してみたい。

 

1 アベ化する世界-民主政治の世界的危機

 

 他者に対する敬意を欠いた自己愛過剰の政治家が権力を奪取し、あらゆる規範や常識を無視して権力を行使することによって自分の目的を追求する、という現象を「アベ化」と名付けるならば、既遂、未遂を含めて、世界中でアベ化か進行している。その先頭は、アメリカ共和党の大統領候補を目指すドナルド・トランプであろう。少数派や移民を排斥し、嘘を平然と垂れ流しつつ、「アメリカを再び偉大な国に」というスローガンで保守層の支持を集めている。経済界のエリートに奉仕する堕落した政府にも、少数派の人権が尊重される社会にも不満を募らせている白人男性がその中心である。ヨーロッパでは、つい最近までのイタリアに君臨したメディア王、シルビオ・ペルルスコーニ、フランスで移民排斥を唱える国民戦線の指導者マリー・ルペンも同類である。

 一連の現象は、民主政治の脆さを示している。民主政治はいくつかの壮大な虚構(fiction)あるいは建て前の上に成り立っている。人間は知的能力、経済力、情報量などにおいてさまざまである。それらに関する違いを一切無視して、すべての人間は平等であるとみなし、人々の投じた票を同じ価値として計量するというのは、フィクションの極みである。人間には、他者に同情し、人間の尊厳を互いに守るという崇高な性格もあるが、自分と違った人間を見下し、差別したがるという劣情もある。民主政治あるいは文明社会は、人間が他者と接する社会生活を営むときには劣情を抑え込み、崇高な性格を表に出すという建前の上に存在する。この前提が崩壊すれば、民主政治も崩れ去る。

 また、フィクションが現実とは乖離したものであることを知りつつ、それに基づいて世の中のルールを組み立てるという作業は、人間だけにできる知的なものである。しかし、人間は他の動物よりも知的であることを喜ぶとは限らない。知的作業は面倒であり、辛気臭い。感情をストレートに発散した方が楽だ、気持ちいいと感じる人も大勢いる。知性の重荷を否定する人間が多数派になれば、建て前も唾棄される。

 いまや、世界中でデマゴーグが民主政治を支えてきた建て前がフィクションであると声高に言い立て、それがさも重大な発見であるかのように誇っている。そして、ものを考えることを面倒がり、疎ましく思う人々がフィクションに縛られなくてもよくなったと解放感に浸っている。

 建て前が成立するためには、さらにその下に前提条件があった。古くから、衣食足りて礼節を知ると言い、孟子は恒産なくして恒心なしと言った。生活の安定がなければ、他者の尊重だの人間の尊厳だのと建て前を唱える余裕はない。物的な生活基盤だけでなく、精神的な基盤、他者から信頼されているとか必要とされていると感じられることも、恒心や礼節の必要条件であった。グローバル化が世界を席巻してきたこの20年ほど、心身両面の基盤が破壊されてきた。今までの安定した生活を奪われたという被害者意識を持つ人々、将来の生活の見通しを持てないという不安を持つ人々は、礼節や恒心は無縁である。ヨーロッパでは、イスラム教を信じる異質な人々が怒濤のように流入し、ヨーロッパ人のアイデンティティを脅かしている。

 このような状況では、民主政治の依拠する脆い前提の虚構性をあげつらい、人々の劣情を煽るところに政治的好機を見出すデマゴーグが出現するのも当然である。今、民主政治は1930年代以来の危機に直面しているということもできる。

 こうした共通性の中で、さらに本家日本のアベ化の特徴は何か。

 第一は歴史の忘却、あるいは自己中心的な握造と建て前の否定が結びついている点てある。アメリカやフランスのデマゴーグは、合衆国憲法やフランス人権宣言に回帰し、それを忠実に実践するのは自分たちだと正当化する。憲法や人権宣言はすでに伝統である。伝統に忠誠を誓ったうえで、移民は卜全な権利の主体ではないし、女性の権利を否定するイスラム教徒には人権など認めるべきではないとする理屈を立てる。憲法や人権宣言の適用範囲を狭めることによって、真の市民とその他の敵を識別する。

 日本の場合、憲法は伝統ではない。人間の平等や権利の不可侵という建前は、第二次世界大戦で日本が負けたため、アメリカから押し付けられた外来の観念であり、日本人の体質や発想に合わないというのが安倍たちの考えである。建て前の虚構性を主張するとき、敗戦の歴史を否定し、さすがに負けていなかったとは言えないため、あの戦争は間違っていなかったという強がりを言う。憲法の縛りから自由な国家権力を現出させること(集団的自衛権の行使容認はその典型)は、憲法の正統性を否定することであり、それが、アベ化の大きなテーマとなる。建て前の否定が、建て前の成立以前に存在していた古い国家形態の正当化と連動するのが安倍政治の特徴である。

 第二は責任の不在である。建て前の破壊はもちろん権力者の作為である。しかし、日本の場合、権力を正面から振りかざして建て前を壊す、あるいは建て前を守ろうとする人々を抑圧するという形を取るとは限らない。むしろ、建て前を自発的に放棄するよう仕向けるところに権力を発揮することが多い。

 最近の放送メディアに対する威嚇はその典型である。自己愛過剰の権力者に取って批判的なメディアは邪魔物である。しかし、報道の自由という建前があるため、戦前のような弾圧はできない。そこで、監督官庁の長である総務大臣が著しい不公平があれば放送局の放送免許を停止、取り消しするという「一般論」を述べ、何か不公平にあたるかは放送局に考えさせるという手法を取る。権力との間で紛糾を起こしたくないメディアは、政権の意向を忖度して、自発的に批判的な論調を抑え込み、報道の自由を自発的に放棄する結果となる。

 報道だけではなく、学校や社会教育など様々な世界で、同調圧力による建て前の放棄という現象が進む。学校や公の施設で政治的なプロパガンダをしてはならないという一般論が強調される。すると、教師や施設管理者は、憲法を守れなど、現政権の進める政策に敵対するメッセージを発する運動を抑圧することとなる。

 もちろん、安倍政権が今までの自民党政権にないほど、直接的、恣意的に権力を行使していることは確かである。辺野古新基地建設をめぐる安倍政権と沖縄県の紛争のように、法律に基づいた権力行使が争点化されれば裁判で理非曲直を明らかにすることもできる。しかし多くの場合、人々は自発的に自由を制約しているのであり、命令の発出主体が見えないという意味で、権力の中心が空虚であるということもできる。責任不在の日本において、巨大な権力は中空構造に見えるというパラドクスがある。

 

 2 日本の民主化というプロジェクトの途上

 

 ここまで述べたように、日本政治の現状は決して楽観できない。しかし、この20年余りの日本政治の試行錯誤の歴史の中に現状を位置づけると、多少違った絵も浮かび上かってくる。

 安倍政治について、しばしば昔の自民党ではこのような強権的な支配はありえなかった、与党の中からブレーキがかかっただろうという批評が聞かれる。確かに、昔の自民党には派閥が跋扈し、反主流派は総理・総裁の足を引っ張った。60年安保の騒動の中で岸信介が退陣したのも、国民世論の批判は大前提ではあるが、自民党内の反主流派が岸を追い込んだという面を無視できい。しかし、派閥政治には金権腐敗という大きな害悪があり、これを克服するために1990年代に選挙制度改革や政党助成金制度を実現した。政党の中央集権化は、改革の際に意図した結果である。問題は、集権化された政党の上に、人口減少や経済構造の転換という本来の政策課題に対応する的確なリーダーシップが形成されているのではなく、時代錯誤的なナショナリズムを鼓吹する独裁的リーダーが君臨していることである。

 古い病弊を是正するためにある治療を行ったところ、一時的に治療は成功したように見えたが、新しい病気が発症したというのが現状である。現状がいやだからといって、今更アンシャン・レジームに帰ることはできない。金権腐敗の派閥政治と決別したことは、これからの政治を考える際の前提である。新しい病弊に対してはその都度粘り強く治療を試みるしかない。

 55年体制といわれる自民党による一党支配からは、我々は離脱した。今の安倍政権は、公明党との連立なしにはあり得ないものであり、昔の自民党政権と比べれば、脆い基盤の上に載っている。

 政治や行政の世界では、この20年の間に、人々の使う言葉や常識に関して、大きな変化が起こっている。情報公開制度は定着し、パブリック・コメントなど市民参加の手続も中央、地方の政府で当たり前のものとなっている。政策決定に関する様々な資料は官庁のホームページに上げられている。実態として官僚の隠蔽体質は残り、市民参加も形骸的なものにとどまることが多い。それにしても、これらの制度を前提として官僚が動かざるを得ないということは、民主主義の進化にとって大きな前進と言わなければならない。

 2009年の政権交代については、民主党政権の失敗という国民的記憶が強い。しかし、現実には政権交代によって生じた大きな変化がいくつもある。たとえば、審議会の委員の人選が変わり、NPO障がい者対策などの分野では市民活動も政府の審議会に入って政策立案に加わった。その結果、新しい立法も実現した。福島第一原発の事故の後には、討議型世論調査が行われ、2030年代までに原発ゼロを目指すという政策が一度は政府によって採用された。民主党政権については期待が大きすぎたために合格点という評価はない。とはいえ、日本政治の歴史の中に重要な経験を残したことは事実である。55年体制の崩壊という地点からの政治の動きを日本の民主化とみるならば、少しずつではあるが民主化は進んでいると評価することができる。

 この点については、亡くなった篠原一が唱えた政治的移行(transition)という概念が参考になる。『世界』の2010年11月号に掲載されたインタビュー、「トランジション第二幕へ」で篠原は次のように語っている。このインタビューは、政権交代の後、参院選で敗北し、民主党の風向きがおかしくなったときの、篠原による現状分析であった。

 

 「こういう変動の時期は、ものごとをイベントや点として見るのではなく、長いプロセスとして、線として見る発想を常に持っていなければいけないと思うのです。(中略) 日本人はせっかちだから、すぐ「改革をほとんどやっていないじゃないか」という。そのためにもトランジション(政権移行)という概念を導人したほうがよいのではないかと思うわけです。トランジションは革命ではないから、長い時間がかかる。(中略)

 日本の場合、(55年体制が)成功したからこそ、その体制が長く続いたわけなので、これを転換することは容易ではない。逆行したり、元に戻ったりすることもある。トランジションとはそういうものなのです。」

 安倍政治は篠原の言う「逆行」である。この逆行が変革の起点からさらに昔に戻る反動になる危険もある。しかし、民主化の中の一つの段階と考えるならば、この逆行を食い止めることについて、絶望感を抱かなくても済むだろう。

 前進と逆行のせめぎあいは今も続いている。2015年の安保法反対運動も、前進の動きの現れであった。この運動は、日本に新しい政治文化をもたらしたということができ。SEALDSに代表されるこれらの市民運動の意味を確認しておきたい。一言で言えば、民主主義を支える能動的な主体がようやく日本でも出現したということである。明治維新後、近代的な民主主義の制度や理論が欧米から輸入されたが、それを現実に動かす主体は不在であった。民主主義を担う市民をいかに作り出すかは、政治学のみならず社会科学にとっての伝統的な課題であった。かつて、和辻哲郎はヨーロッパ留学の経験をもとに、日欧の政治文化を比較して、日本においては個人の不在が公共への無関心をもたらし、それゆえ民主主義が成立しないことを慨嘆していた。やや長くなるが、『風土』(岩波文庫)から引用したい。

 

 「「家」を守る日本人にとっては、領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒を感じない問題であった。よしまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。‥…

それに対して城壁の内部における生活は、脅威への忍従が人から一切を奪い去ることを意味するがゆえに、ただ共同によって争闘的に防ぐほか道のないものであった。だから前者においては公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである。共産党の示威運動の日に一つの窓から赤旗がつるされ、国粋党の示威運動の日に隣の窓から帝国旗がつるされるというような明白な態度決定の表示、示威運動に際して常に喜んで一兵卒として参与することを公共人としての義務とするごとき覚悟、それらはデモクラシーに欠くべからざるものである。」(『風上』、岩波文庫、249頁)

 

 いうまでもなく、自民党政治は「公共的なるものへの無関心を伴った忍従」の上に立脚してきた。今までも60年安保や公害反対など、市民が関心を持って政治的表現を行ったことはあった。しかし、政治的な勢力に成長することはなかった。とくに、1960年代以降、高度経済成長からバブルの時代には、経済的豊かさの追求という勢いが国民を統合した。人々は政治に目を向けることなく、私生活の豊かさと快楽に関心を向けた。それは自由主義の一つの形ではあった。それはまた、内政、外交の基本的な枠組みが固定され、大きな政策の方向性を問うという意味での政治が不要であった時代状況の反映でもあった。

 そして、自民党政治の下で「公共」というシンボルは、もっぱら戦後民主主義における個人の尊重や人権保障の「行き過ぎ」を批判する意味で用いられた。和辻の議論とは正反対に、自己の主張を圧殺したうえで、社会の多数派、ド流派への同調を求めるという文脈で、公共性を重んじよという説教が行われたのである。

 2015年安保では、人々は自分かちが生きる社会にとっての公共性を自ら探し求めて、立ち上がった。安保法制については、新規の立法を必要とする客観的な現実の出現や変化(法学で言う立法事実)が存在しないことが専門家によって指摘されていた。つまり、集団的自衛権の行使や安保法制の制定は、安倍首相が自らの私的な願望を実現するために企てたものであった。その意味で、公共性を欠く立法であった。これに対して、人々は今の日本にとっての公共の利益は何かを考え、それを守るために行動を起こしたのである。

 さらに、この運動の成果の上に、多くの市民は議会内の勢力を変えるというより政治的な目標を設定し、2016年の参議院選挙における野党協力を求めて粘り強く運動した。特に、地方の一人区における野党統一候補の擁立を求めた。野党の間には路線の違いや今までの行きがかりから協力に消極的な勢力もあったが、結局、野党協力は実現した。議会や政党政治の外側における市民の運動が野党を変え、選挙協力を実現させたというのは、日本の政党政治の歴史の中でも、画期的な出来事である。

 

3 よい社会のイメージを広げる

 

 政治の世界で立憲主義を守り、法の支配や基本的人権を擁護することは、今の日本にとって極めて重要な課題である。しかし、政治の世界だけでスローガンを叫ぶことで選挙に勝てるわけではない。すでに日本では、人々が経済的に困窮し、日々の生活を持続するだけで精いっぱいという状況が部分的に出現している。これがさらに拡大すれば、国民主権基本的人権の擁護など、絵に描いた餅となる。すべての人間に健康で文化的な生活が確保されなければ、人々は政治に対する関心を持つ暇はなくなる。

 選挙の際には、安倍政権が進める経済成長政策に対して、オルターナティブを提示することが不可欠である。各種の世論調査が示す通り、安倍政権が進める憲法改正原発再稼働などの政策に対しては、国民の多数は否定的である。しかし、安保法制の国会審議の最中を別とすれば、内閣支持率は常に五〇%前後で推移している。人々が安倍政権を支持する理由の一つには、中国や北朝鮮の脅威に対する漠然とした不安を抱えているので近隣諸国に決然たる姿勢を示すリーダーを求めているという理由があるだろう。もう一つは、各人が自分の生活実感において恩恵を感じないとしても、いわゆるアペノミクスによって株価が上がり、企業収益が増加したという景気回復のイメージが重要である。安倍首相自身、株価を維持することに強い関心を持っていると伝えられる。人々にとって自分の生活を守ることは最大の関心事であり、景気や雇用に関する肯定的な指標を見れば政権を支持しようという気になることは、当然である。

 水野和夫氏が言うように、いま世界中で資本主義経済は資本の自己増殖の機会を塞がれてのた打ち回っている。安倍政権をはじめとする多くの国の政府は、そうした資本に奉仕することを自らの任務と考え、マイナス金利など、資本主義の常識に反する政策を総動員している。しかし、かつてのような成長は望めないだろう。また、人為的な為替安や雇用の規制緩和によって企業の収益を増やしても、富は人間には分配されない。企業は将来不安を口実に、富をため込むばかりである。

 外岡秀俊氏が新しい成長戦略の必要性を述べたのは、決して安倍流のGDP拡大の模倣ではない。環境への悪影響を極力小さくしながら、人間の尊厳ある生活を持続するための経済活動を継続する知恵を絞れという意味であろう。水野氏の現状分析を前提としながら、新しい生産と消費のあり方を考え出せというのが、外岡氏のメッセージだと私は理解する。

 自動車、耐久消費財、着る物や食べるものに関しては、消費が飽和状態に達している。しかし、介護、育児、医療などの対人サービスに関しては、供給が需要に追い付かないミスマッチが一層深刻化している。「保育園落ちた、日本死ね!!!」という女性のネット上の発言が、政治にも衝撃を与えている。実際、対人サービスの決定的不足は、人口減少、さらに社会の収縮への道を開いている。

 多くの経済学者が指摘しているように、そこにこそ成長の機会がある。人間の尊厳を守るための対人サービスを市場化するのではなく、サービスの供給体制を公共的インフラストラクチャーとして整備し、そこで働く人間にも尊厳ある生活や労働を確保することこそ、アベノミクスに対抗する経済政策の柱となる。

 もう一つの課題は、エネルギーの転換を持続可能な経済成長と結びつけることである。山岡淳一郎氏が明らかにした通り、原発はすでに終わった産業技術である。世界の中で日本の電機メーカーが最後にババを引かされている。再生可能エネルギーの拡大以外に、日本経済が立ち直る道はない。

 エネルギー政策の転換は、日本の民主政治の再生にとっても不可欠のテーマである。3・11から5年たち、原発事故の記憶も風化する中で、安倍政権は原発再稼働を進めている。正確に言えば、政府が記憶の風化を進め、事故の真相究明を放棄している。このような原発政策は、かつて日本が無謀な戦争に突き進んだ時の「無責任の体系」(丸山真男)の繰り返しである。失敗を失敗として認めず、希望的観測に基づく成算のない政策を漫然と維持する。そして、失敗のつけはすべて国民にかぶせ、政策を立案、決定した一部のエリートは自己利益を追求する。こうした無責任の体系を克服することができるかどうか、今を生きる日本人の決意と力量が問われている。安倍政治との決別は、無責任の体系からの脱却でもある

 最後に、政党の課題について述べておきたい。2016年3月に、民主党と維新の党が合併して、民進党が結成されることになった。私は、自民党に対する対抗勢力として民主党を応援してきた。一強多弱と言われる状況で大きな対抗勢力ができることは、政治を転換するために必要なことだとは思う。しかし、新しい野党の行方を占うことにはあまり意味がない。新党の内部対立やまとまりのなさをあげつらうことにはもっと意味がない。

 2015年秋の安保法制成立以後、立憲主義を擁護する多くの市民が野党協力を求める声を上げ続け、その民意を受け止めて参議院選挙に向けて野党が協力の体制を作ったことの方が、新党結成よりも、日本の政党政治にとっては重要な意義を持つ。市民が能動的、積極的に発言、行動し、政治家や政党はその後を追いかけるというのが、民主政治の一つの姿である。新党には期待もあきらめも持たず、取るべき理念や政策を叫び続けることによって、野党が少しずつ進化するというシナリオを追求するしかない。そのための市民の政治的実力については、楽観できるというのが今の私の結論である。

 

 

  これにて、この書籍からの引用は終了です。最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 引用文中にある通り日本の民主政治にとっての「ポイントオブノーリターン」が時々刻々と迫ってきているように感じる。

 「一強多弱」の状況はしばらく継続すると考えられるが、「一強」であっても、「アベ」のような偏見に満ちた思考回路を持った者が国政を担当しない状況を作り出すことができれば、まだまだこの国は立ち直れると思う。

 但し、今の政権与党にそれを望むのは難題のようにも映る。もっともっと国民が「関心」を持ち、マスコミも本来の姿を取り戻してほしい。

 

 

  • 「写真」

 

 今日は撮影には行きませんでした。

 

 

  • 「ボランティア活動」

 

 ボランティア活動はありませんでした。

 

  • 「終わりに」

 

  明日もゆっくりのんびりいきましょう。

 

  • 「追加」

 

  「批判なき選挙、批判なき政治」』を目指す・・・』と名前だけは「有名」な方のご発言が物議を醸しています。

 「批判なき選挙、批判なき政治」を突き詰めると、過去に大罪を犯した国に辿り着きます。

 怖いことですね。