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雑誌・書籍を読んで。

日記 雑記 その他 サッカー

 

 今日は少し長いです。懸命にタイピングした(WORDに)モノを「はてな」にコピーしました。

 あまりにも長く読みにくいと思われる方はスルーして下さい。

 

 

 テレビなどでもお馴染みの「片山 義博氏」の雑誌「世界10月号」への投稿文を引用させていただきました。

 昨日の東京都知事小池百合子氏」の「豊洲問題調査報告」に関連します。「豊洲問題」があちこちで語られるときに、まだ、出てこない(話題に上らない)関係者が大勢おられます。都議会関係者(都議会議員さん達)です。

 豊洲移転を決定し工事に着手させたのは、都の職員ではありません。「都議会」で決定及び承認され、それに基づいて、都の担当部局とゼネコンとの間で工事契約が成され、工事が開始されたのです。

 

 但し、都職員には責任がない・・・とは言わせません!

 

 

 ご参考までに・・・。

 

 雑誌 世界10月号 P.67~

世界 2016年 10 月号 [雑誌]

世界 2016年 10 月号 [雑誌]

 

 

  片山義博の「日本を診る」

 

 都議会改革は都庁改革

 

急務の都議会改革

 先の東京都知事選挙は、小池百合子氏の圧勝に終わった。その小池氏が選挙期間中に主張していたことの中で最も印象に残ったのが都議会改革である。立候補を表明した際に打ち出したのが「都議会の冒頭解散」で、これは都議会自民党会派に対する挑戦状であると、マスコミは報じていた。

 また、都政はどなたがどこでどのように決めているのかさっぱりわからないとも訴えていた。これは都議会自民党会派内にある「政策推進総本部」のことが念頭にあっての発言だろう。この総本部なるものの存在することについては、筆者も都庁関係者から一度ならずとも聞かされたことがある。都の主要政策については、都庁各局があらかじめこの総本部に持ち込み、そこで了解が得られてから具体的に予算案に盛り込んだり条例案の作成に着手したりするのだという。

 予算案にしても条例案にしても、いずれ知事が議会に提案するのだが、この独特の政策決定プロセスにおいては、往々にして提案者である知事よりも先に都議会自民党議員のほうが内容を把握して、各局との協議を通じて行われる修正や調整を経て、内容が固まるのだという。

 そもそも二大代表制を採るわが国の地方自治のもとでは、知事や市町村長などの首長が責任をもって議案を作成し、それを議会に提案するのが本来のやり方である。ところが、都の仕組みでは、知事の知らないうちに各局と都議会自民党との間ですでに議案お内容がセットされているのだから、知事はまっとうな説明責任を果たしようがない。

一方、実質的に議案の内容を決めた都議会自民党も、説明責任を果たすことはない。形式的には議案は知事が提案したものであり、都議会自民党に属する議員たちは他の会派の議員と同じく、形式上は議案を知事から受け取る立場でしかないからである。実際には議案の内容に大きくかかわっていても、答弁や説明を求められることはない。

 都の政策について一体だれが責任を持つのか。都政はどなたがどこでどのように決めているのかわからないとの小池氏の批判は、おそらくこんな事情を背景にして出てきたはずだ。確かに都議会改革は急務だと言っていい。

 

無謬主義、事なかれ主義との訣別

 そもそもわが国の地方自治制度では、例えば予算案の編成権は知事のみに属していて、都議会にはない。ところが、その編成権の一部(しかも重要な一部)が事実上都議会自民党会派に移ってしまっている。条例案も都民にとって必要なものを知事が責任をもって提案すればいいのに、事前に都議会自民党の了承を得られたものしか提案しない。こんな歪な仕組みにしてしまったのはだれの責任か。都議会自民党だけの責任かと言えば、必ずしもそうではない。むしろ執行部側にこそ原因の多くがあると、筆者は睨んでいる。

 その最大の原因は、政策形成における都庁の無謬主義と事なかれ主義だと思う。この場合の無謬主義を多少誇張して言えば、、都庁で作成した予算案や条例案は完璧であって、修正を加えられる箇所などあってはならない。ましていわんや、否決されることなど決してないとの自負である。もう一つの事なかれ主義とは、公の場での論争を避けるために、それが出ないような環境を整えておこうとする心理である。

 議会との関係でこの二つの要素を満たすには、議案提出の前にそれらが無傷で可決される段取りを整えておかなければならない。それには、あらかじめ都議会多数会派との間で話をつけておくのが最も合理的かつ手っ取り早い。こうした文脈の中で、半ば必然的に出来上がったのが都議会自民党会派の「政策推進本部」なのだろう。

 このやりかただと、都議会のすべての会派に話をつけている訳ではないので、議案に公然と反対する会派も出てくる。しかし、いくら少数派が反対しても、多数派がそれを蹴散らしてくれるので、議案処理については何も心配はない。また、議場で厳しい質問をぶつけられることがあっても、それが議案の処理結果に影響を及ぼすことはないので、慇懃な答弁をしておけばやりすごせる。

 こうしたやり方は、東京都に限ったことではない。全国の多くの自治体に共通してみられる光景である。そこでは、議案を議会が良く吟味したうえで修正したり、否決したりすることはない。議案をめぐって然したる議論が展開されることもない。万事を予定調和的に処理するのがもっぱらである。

 つつがなく議案が通ることはむしろ望ましいという考えを持つ自治体関係者は多い。 ただ、この根回しによる事前調整方式の弊害は大きい。議会の多数会派と密室でこそこそと相談して物事を決める。そこでは、一部の声の大きい議員の利害が反映する可能性を排除できないが、それを外から見ると、それこそ「どなたがどこでどのように決めているのかわからない」ことにほかならない。

 この際東京都だけでなく全国の自治体でも、根回しによる事前調整はほどほどにして、執行部が責任を持ち主体的に議案を作成し、正々堂々と議会に提出する切り替えてみてはどうか。それだと議案が一本も通らないと心配する向きもあるが、決してそんなことなない。議案の内容に欠陥があるのならともかく、もし議会が理由なく議案に反対するようなことがあれば、議会の見識が疑われるし、その責任が問われよう。案ずるより産むが易しというのが、そのことをかつての鳥取県政で実践した筆者の感想である。

 

情報公開の徹底――予算編成過程の透明化を

 傍から見ていて、東京都の情報公開度は決して高くない。舛添要一前知事の外国出張旅費支出に関し、情報公開請求に応じて都側が提出した資料ではやたら黒塗りの部分が目立っていた。しかも、その該当の箇所を黒塗りすなわち不開示とする理由は、どう見てもなさそうだった。都にもある情報公開条例の適正な運用に欠けているのではないか、こういうことだから法外な外国出張費などの無駄遣いが発生しているのではないかというのが筆者の感想である。

 情報公開を徹底し、透明性を高めることは組織が病を治す上で、とても大きな力を発揮する。とりわけ、都知事ないし都庁と都議会との関係を正常化するうえで最も効果的だと思われるのが、都の予算編成過程の透明化だろう。

 これまでの予算編成では、その概要が世間に伝わるのは、予算案が出来上がって公表される時期でしかない。それまでは密室の編成作業である。その密室の作業の一環として「政策推進総本部」などとの調整が秘密裏に行われている。

 このやり方を改め、最初の各局の予算要求の段階からその内容をホームページで公開するのである。その後の財政当局での査定内容も、最終的な知事査定結果も、全て同じように公開する。こうすれば、それぞれの段階の責任者(各局の局長、財務局の部長や局長、それに知事)が、それぞれの時点での内容に説明責任を果たすことになる。

 もし、このプロセスのどこかの段階でたとえば議員からの口利きや横やりが入れば、それを受け入れた幹部が苦しい説明をせざるを得なくなる。これは口利きや横やりに対する抑制力になり得る。では議員は予算案に何も注文を付けられないのかと言うと、そんなことはない。議会における予算審議の過程で、それぞれ意見を言ったり、修正の必要性を論じたりすればいい。それには議員が公の場で説明責任を果たさなければならないが、それはごく当たり前のことである。

 これは、鳥取県で筆者が実際に行ったことである。これが兼執行部と県議会との関係正常化に大きな役割を果たしたし、予算の無駄を摘出するうえでも実に有効だった。今後の都政改革に参考になるのではないか。

 

 

 

 

 

 「小笠原 博毅氏」 他の著名な方々の共著による、著書「反東京オリンピック宣言」の」中から引用させていただきました。

 

  私達高齢者は(概ね60歳以上の人たちでしょうか?)、「高度経済成長」という経済現象の真っ只中を生きてくることが出来ました。何もかもが、昨日より今日、今日より明日と目覚ましく成長して行けた時代でした。

 それが見事にはじけて「空白の20年」とかいう時代に突入して、何もかもが「停滞したまま」の時期を迎えました。今の若者の皆さんは、残念なことに「経済成長」という言葉の意味を知りません。体験もしていません。この国の国民がそんなギャップを背負ったまま暮らしている現状において、しかし、世の中の舵取りは依然として、「高度経済成長」経験組の面々が取り仕切っています。「成長」を夢見ながら・・・。

 

 私を含めて、その経験組の頭の中には、「昨日より今日、今日より明日」、「良くなるよ、成長するよ・・・」の思考回路がしっかり組み込まれていて、容易には消せません。

 

 引用させていただいた文章中に「赤字(私が色を付けました)」の部分があります。それが、まさしく、容易に消せない思考の部分です。

 

 この思考回路は、オリンピックに限りません。国の行方を左右する「政治の場」でもその絶大な威力を発揮し続けています。例えば「アベノミクス」とかいう「愚策」・・・。

 

 

 ご参考までに・・・。

 

反東京オリンピック宣言

反東京オリンピック宣言

 

 

 書籍 反東京オリンピック宣言 P.249~

 

 ―――あとがきにかえて 小笠原 博毅

 

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 「資源としての二〇二〇年東京大会」

 「どうせやるなら」派の最後に紹介したいのは、「東京人」たちだ。同名の雑誌とはとりあえずそれほど関係はない。これは都市の再価値づけを図るという点で先に触れた若手インテリたちと同じ土俵に立っているように見える。ただ彼らが新たな景観や技術の導入によって都市空間を再提示しようとするのに対し、この立場は既存の歴史に依拠した東京の磁場の組み換えと、文化的価値の配置転換をその中心課題としている。そうした試みを先導するのが、東京文化資源会議なる組織である。ホームページによる説明では、そのプロジェクトは「内閣府国土交通省文化庁、大学、民間研究機関、企業等、様々な分野の専門家、実践者の有志が集まり」、「上野、本郷、谷根千、神保町、秋葉原、神田、根岸等の特色ある文化を保有する地域を中核とした上野寛永寺から旧江戸城に至る東京都心北部一帯に残り、育まれているソフト、ハードあわせた様々な文化資源を生かしたプロジェクトを進めていくことで、2020年以降の新たな東京を作っていこうというもの」だそうだ。

 長い資本主義の道程は、その断末魔に近いネオリベラリズム化の過程で、労働する人間を交換可能、リサイクル可能な資源に変えた。臓器移植に関する論争は人体を資源とするという事か否かをめぐっていまだに続いているし、先端医療における遺伝子の取り扱いもまた、ヒト胚の情報をある種の資源と考える発想である。そして、文化である。時代の流れと言ってしまえばそれまでだろう。無関係だとは述べたが、雑誌「東京人」が中央線沿線について特集したがるのは谷中、根津、千駄木あたりのいわゆる「谷根千」界隈だから、どこかで共鳴するのだろうか。いずれにせよ、関東大震災東京大空襲、六四年の東京オリンピックを経てその注目度が相対的に低下してしまった地域の価値を、産官学で連携してもう一回再発見してもらおうという試みだと理解すればよいだろう。渋谷、青山、六本木が大好きでない限り何ら文句をつける筋合いではなさそうに聞こえるこの説明の文言のなかで、またもや所与の条件として描かれているのが二〇二〇年東京大会なのだ。東京へのオリンピック招致決定後に発足したこの組織が、「2020年以降の新たな東京をつくっていこう」とするのは不思議ではないが、下町情緒の残る山の手をプロモートするのになぜオリンピックが契機とならなければならないのだろうか。

 東京芸術大学院国際芸術創造研究科の新設を記念して行われたシンポジウム、「芸術文化の創造と大学の未来」における吉見俊哉の講演の中に、その理由を読み取ることができる。当の文化資源会議の幹事長を務める吉見の公演は、別の会議で行われた別の講演とほぼ同じ内容であるため、そこから読める彼の説明を眺めてみよう。

 

 2020年の東京開催について、世界の支持があったのは事実ですが、それは東北の震災復興と対であったはずで、オリンピックに向けた首都の未来と東北・地方の未来が一体をなさなければならなかった。しかしながら、その後の新国立競技場やエンブレムの問題、そして東北復興、福島の現状、全てにおいて問題だらけです。

 なぜこんなことになっているのか、一番大きな理由は、1964年からの価値転換ができていないからです。1964年の時の価値とは、その年に開催された東京オリンピックの標語でもありましたが「早く、力強く、成長する」でした。当時は高度経済成長に入っていく時期ですから、右肩上がりの経済の中で、その起爆剤としてオリンピックは開催されたのです。

 日本の経済から言えば、右肩上がりの時代は終わり、未来に高度成長はありえません。人口も経済も縮減期に入っている。その中で私たちは、豊かさの意味そのものを問い直さなければならない。成熟社会とよく言われますが、それは循環型社会のことだと思います。ペットボトルやレアメタルだけでなく、私たちの文化や知識自体を循環させて、クオリティをあげるプロセスに入っていく。そうした循環型社会への転換に仕組みとしてオリンピックはあるべきだと、私は思います。

 

クリアである。「サーカス」としての2020年大会を批判し、それが批判されるべき理由が一九六四年大会と変わらぬ価値のままに行われようとしているから、ということなのだ。それを踏まえたうえで、この見事なまでに「どうせやるなら」派を代表するような言葉群の、看過できない問題点を挙げておこう。

 まず、「世界の支持」などない。それは安倍晋三による嘘を嘘と知りながら利害を優先させた政治判断にすぎない。次に、招致成長から成熟した循環型社会へという価値変容を促そうとするメッセージは、リレハンメルやヴァンクーバーの冬季五輪の時から言われ続けていることであり、そしてずっと裏切られ続けてきた夢でもあるということ。本書にも納められているアメリカの社会学者じゅーるず・ボイコフは、オリンピックを「祝賀資本主義」という概念で説明しようと試みているが、その「祝賀資本主義」の五番目の特徴として、「持続可能性」を高らかに謳うことを挙げている。フィットネスはばっちりだ。次に、東京大会の招致と開催が東北地方の震災からの復興と「対になって」いなければならないという指摘。これは東北の復興、福島の原発事故後の処理と対策、東日本全域にわたる放射能汚染への対策と、オリンピックが一体となって云々、ということなのだが、それはどういう意味なのだろう。オリンピックが震災のダメージから二度と抜け出せない地域、共同体、人間を救うということだろうか。それとも、オリンピックの開催が何かよい効果を東北にもたらさねばならない、そういうものでなければ開催の意味がない、ということだろうか。善意で受け止めれば、そういうことだろう。しかし二〇二〇年にオリンピックを東京で開催することにより、何がどう転べば福島第一原発からダダ漏れ放射性物質を制御することができ、再び飯館村で牛の放牧をすることができ、離散した家族や親族を再び結びつけることができ、失われた命への服喪をかんりょうすることができるというのだろうか。耳あたりも見映えもよい。一見、オリンピックを梃子にして、そこで終わらずに、社会生活のより一般的な利益を作り出すきっかけにしようという意気に溢れているように見える。しかし、このような立場が「なるほど、うまいこと考えるな」と頷かれて合意を得ることによって、当のオリンピックは生き残ってしまうのである。オリンピックはそれを開催し、閉幕することで、次の時間軸における出来事の資源となることを期待されている。オリンピックという出来事自体が変成して、まるで資本のように投資される機能を担うのである。

 もちろん、文化を資源化するために動いている産官学の連中に何かを期待するのはそもそも間違っているだろう。「文化資源の全国的活用」を謳い文句にしながら、そこでイニシアティブを取ろうとする最高学府東京大学分家系が、官をうまく使いこなしながら、地域の活性化戦略とタイアップしての起死回生をもくろむ作戦だというだけのことかもしれないのだから。所詮本郷界隈のことでオリンピックや震災後の東北を巻き込んでもらっても、困るのである。東京のごく一部の地域の生き残りのために、東北のみならず、世界中からやってくる人間たちを好都合な資源として利用しようというのだろうか。その発想は、首都の電力供給機能の件残価のために福島に原子力発電所を備えつけた発想と、どこか親和的ではないだろうか。なにより、これは別の形のオリンピックの政治利用ではないか。勿論政治利用という身構え自体を否定するものではない。ただ、それによって人はオリンピックが気になってしまうとトリーズマンが書いていた。まさにその通りの末路へと至る青写真がはっきりと見える。「21世紀の戊辰戦争は可能か?」という講演タイトルのあげあしをとって、「なんだお前は戦争がしたいのか」などと戦後平和主義的態度で迫ることも粋ではないだろう。ただ、上野寛永寺境内を中心に籠る彰義隊に向かって打ち込むために、大村益次郎が当時日本に二台しかなかったアームストロング砲を備えつけさせたのは、旧加賀藩邸、現在の東京大学本郷キャンパスだったということは記しておこう。新たな戊辰戦争を経た時、オリンピックはまだあるだろうか。東京のごく一部のことは、東京のごく一部の人たちでやってもらって、いっこうにかまわないのだ。

 

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 さて、サッカーJ1我が「アルビレックス新潟」は、この場に及んで(いや、遅すぎた)監督解任&新監督誕生劇を演じております。

 今日の対戦相手は、残留争いから抜け出たかに見える「ジュビロ磐田」。敵地「ヤマハスタジアム」に乗り込んで、新監督の下で第1戦目。

 どうなることかと思いましたが見事に2-1で勝利! 久し振りの勝利は嬉しい! しかし、まだ、残留が決まったわけでもなし。

 新監督は、J2時代からの「アルビレックス新潟」を知る方(在籍している方)、今日の試合も、その古くからの新潟スタイルをほんの少しだけトッピングしたようで、お見事采配。

 W杯予選でJリーグは少しお休み期間にはいるので、この期間を利用してしっかり定着させてほしい。そして、久しぶりに「アルビレックス新潟」らしいサッカーを見せてほしい。

 

 小さなつぼみが、

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大きく花開くように。

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 明日もゆっくりのんびりいきましょう。