さりげなく・・・

「何で?そうなの!?違うじゃん!」を綴ります。

『本』を読んで。

 

 

 私は「本」を読むときに、「気になる記述部分」をノートなどに手書きで書き写し、そののちに、「WORD」などで「PC」に打ち込み、本の題名などを使って「フォルダ」を作り、そこに保存するという「癖」がある。

 「杉下右京」さんのような「悪い癖?」かも知れませんが・・・。

 

 「書くこと」「文字を忘れないこと」「手先や頭がボケないように刺激を与えること」などが主な趣旨なのだが・・・。

 現役を引退して、現役の頃からも、「PC」に頼りきりで「手書きで文章が書けなくなっていた(書けなくなってきた)」ことも要因の一つでもある。

 

 

 昨日は「いい子」にしていたので、こんな本を読んでみた。

さらばアホノミクス 危機の真相

さらばアホノミクス 危機の真相

 

 

 大したページ数ではないので「速読」が得意の方は、いとも簡単に短時間で読破するのだろうが、私の場合は、何か「疑問点」や「前に読んだような事柄・・・」とか出てくると、他の本を読み返したり、WEBで調べてみたりするので、一向に「読み」が進まない。まだ半分ほどしか読破していない。

 

 その、書き留めてその後「WORD」でPCに打ち込んだものを少し載せてみる。

 

P.92~「本文」。

 安倍政権は「日本を取り戻す」という。取り戻すという感覚は後ろ向きだ。過去にばかり目が向いている。これでは、今の自分が見えるわけがない。

「私の思った事、考えた事」

 全くその通りで、目が向いている「過去」についても「偏った認識」のように感じる。

 

P.93~「本文」。

 今の日本経済は成熟経済だ。成熟経済に必要なのは、分かち合い論理だ。奪い合いの論理ではない。一握りの強者が栄えることで、全体が元気になれるという発想は幻想だ。政策は強き者をより強くするためにあるわけではない。弱き者の生きる権利を守ることが、その本源的役割だ。
 この認識がしっかりしていないと、成熟経済の支え手としてはまともに機能できない。この認識が希薄な政策責任者が、他の国の政策責任者と出会っても、まともな語り合いの場は形成されない。

「私の思った事、考えた事」

 財界も政界も「高度成長期」の状況を再現できると信じているところが「怖い」。バブル発生からずっと生産労働人口が減り続け、非正規労働者が増え続けていることを正しく認識すべきと思う。

 

P.55~「本文」。

 「憲法の中の何ものにも手をつけてはならない。憲法は堅持しなければならない。なぜなら、それだけが我々の自由の守り手だからである」。第16代アメリカ合衆国大統領、エーブラハム・リンカーンの言葉だ。
 草葉の陰のリンカーン氏、ここ数日の日本の政治的顛末を見守りながら、どのような思いを抱いていることか。さだめし、怒り心頭に発していることだろう。どれほど、あまりの醜態に目を覆っていることか。日本の民主主義と平和主義が、何とも破廉恥な形で踏みにじられるあり様に、どんな悲痛な涙を流しているだろう。
 2015年7月15日、安全保障関連法案が衆議院の特別委員会で可決された。強行採決反対のプラカードを掲げて、議長席に押し寄せる野党議員たち。彼らの怒号を振り払いながら、議長が裁決を叫ぶ。口をへの字にかみ締めた与党議員たちが、うつろなまなざしとともに賛意表明で起立する。
 7月16日、衆議院本会議で再び強行採決。今度は議場がガラガラだった。野党議員の大半が退席し、採決に加わらない。閑散とした議場で、形式主義的な賛成多数で安保法案は衆院通過となった。多少なりとも羞恥心を持ち合わせている与党議員なら、穴があったら入りたい心境に陥っていることだろう。
 こんな暴挙に加担するために、国会議員になったわけじゃない。そう思って、身を隠すべき穴を探している与党議員は、果たしているか。そうであることを祈るばかりだ。
 委員会採決の時、議場を埋めたプラカードの数々は、国会の中だけの小道具ではなかった。国会の外の街並みをプラカードが埋めていた。強行採決反対。9条壊すな。老いも若きも、国会内の民意そっちのけのごり押し採決に、声高らかに怒りをさく裂させていた。
 暴挙への怒りの声は日に日に高まり、その声の数は日に日にどんどん増していた。この展開の前に、政府・与党は、どんなにか狼狽したことだろう。成熟度の低い人間は追い詰められれば追い詰められるほど意固地になる。慌てれば慌てるほど強権的になる。そうした子どもじみた振る舞いが崇高なる平和の誓いを脅かす。こんなことがまかり通っていいはずはない。だからこそ賢明なる市民たちは立ち上がっているのだ。「今こそ、子どもじみた振る舞いとの決別の時が来た」。新約聖書における聖パウロの言葉だ。新たにキリスト教徒となったコリントの人々への呼びかけだった。聖パウロの趣旨は、キリスト教徒となったのであれば、それにふさわしく、行いを改めるべし、ということだった。だが、信仰を超えて、この呼びかけは、今のグローバルな経済社会に対しても、大いに時宣を得た響きを持っていると思う。
 我々が生きているグローバル時代は、ヒト・モノ・カネが、かつてなく容易に国境を越える。それだけ摩擦が発生する機会も多くなる。国境を越えて何がやってくるのか。得体の知れなさや警戒心や猜疑心を惹起する。ガードを固めたくなる思いを募らせる。
 だが、こういう時だからこそ、人間は大人の分別を発揮しなければならない。少々のことでは、目くじらを立てない。相手が殺気立っている時こそ、落ち着いて対処する。平和のための武装だの、安全のための力の誇示だのということは、決していわない。
 どんなに世の中がざわついても、自分だけは平常心を失わない。和やかさと思いやりを忘れない。そんな大人同士であればこそ、誰も一人では生きていけないグローバル時代を、ともに生きていくことができる。今のような時代状況のさなかにあって、子どもじみた暴力的振る舞いは、絶対にご法度だ。
 内なる舞台で大人の演技ができない者たちは、もとより、グローバルステージの上でも、大人の演技を望むべくもない。100時間審議したから、もう終わり。そんな論法は、大人には通用しない。100時間がなんだ。たかだか4日ちょっとに過ぎない。こんなわずかな時間の中で、戦後の日本が築き上げてきた不戦・非戦の金字塔を突き崩そうというのか。
 これぞ「戦後レジームからの脱却」の意味するところだ。戦後と決別するということは、戦前に戻るということにほかならない。戦後は、何百年たっても戦後だ。したがって、戦後から脱却したいと思えば、戦前に立ち返るほかはない。そのようなとんでもない無理を押し通すために、100時間あれば十分なのだという。そもそも、この計算能力の乏しさが、全くこどもじみている。
 リンカーン大統領は、次のようにも言っている。「我々人民は、議会に対しても裁判所に対しても、正統的なあるじの位置づけにある。そのような地位を我々が有するのは、憲法をひる覆すためではない。それは、憲法を汚そうとする者たちを打倒するためである」。誠に誠にしかりである。権力の横暴を封じ込めるために、憲法がある。その憲法を守るために、市民たちは今日も街でプラカードを揚げる。揚げ続ける。

「私の思った事、考えた事」

 この暴挙を許してはいけない。政権が、いかに国民を恐れているか、昨今の「バラマキ施策」を見れば一目瞭然。「目を逸らそう」と懸命だ。

 

 

 今日は、朝方は良いお天気だったが、午後に入って雲が出てきた。「富士山」の冠雪も、例年になく暖かいせいか、「春先のような斑模様」に変わってきた。折角積もった雪が解けている部分が目立つ。

 で、そんな「富士山」を撮りたかったのだが、朝方、撮りに行ったら、デジタル一眼レフカメラPENTAX K20D)に装着した「SDカード」が読み書き不能(カメラがカードを認識しない)になって撮れなかった。

 家に帰って、この不良と思われる「SDカード」を他のデジタル一眼レフカメラやPCに入れてみたが、いずれも認識できず、「SDカード」の不良であることが確実になった。デジタル一眼レフカメラの不良ではなくて一安心。

 早速「アマゾン」で「SDカード」を注文しておいた。今夕届くようだ。

 

 仕方ないので、一昨日に撮った画像を載せる。PENTAX K20Dで撮影。

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 さて、昨日のメールで書いた通り、これから「第10回湘南国際マラソン大会」のボランティア活動「担当区域」の「下見」に出かける。

 

 やっと体調も回復して普通に動き回れるのが嬉しい。只、無理は禁物。

 

 

 今日も明日もゆっくりのんびりいきましょう。